▼新進党へ 【1月】 ▼公認争いに敗れる 【3月】 ▼参議院議員選挙に挑戦を決意 【4月】 ▼未来を託せる力 【5月】 ▼無党派層に訴える 【6月】 ▼参院選公約 〜改革か、現状維持か 【6月】 ▼10万1317票 【7月】 ▼もう1度チャンスを 【7月】 ▼再び街頭に立つ 【7月】 ▼挑戦し続ける覚悟【7月】
▼街頭で訴える【11月】
▼新進党党首公開選挙【12月】
▼新進党へ 1994(平成6)年12月10日33歳の時、新生党、民社党、公明党、日本新党、自由改革連合などが 合流して、新進党が結成されました。自民党・社会党・さきがけの村山「野合」・「守旧派」
内閣に対抗して、「たゆまざる改革」と「責任ある政治」を推進するためです。海
部俊樹党首、小沢一郎幹事長がリードする新進党に私も参画しました。 山梨県内でも、私が呼びかけて、11月30日に公明・民社・日本新党・新生の
4党で「改革やまなし」を結成します。そして、中央での新進党結成を受け、新進
党山梨県総支部連合会を12月16日に設立しました。 会長は民社党委員長の河西富夫氏、副会長は日本新党常任委員の杉本公文氏、幹
事長は私赤池誠章です。26日には常任幹事を委嘱し、第1回常任幹事会を開催し
ました。翌1995(平成7)年1月9日に新進党県連事務所を開設し、精力的に
県民のみなさまにアッピールしていきました。 1月17日に阪神淡路大震災が起きました。新進党山梨が結党して、関係諸団体へ挨拶回りを していたときでした。早速22日に常任幹事会を開催し、山梨県へ緊急提言を行いました。 また、阪神大震災に関連して、村山内閣の防災対策の賛否を問う、緊急電話世論調査を、
2月13日から27日まで行いました。電話帳をもとに、無作為に電話をかけ、意見
を伺いました。あなたの声を国政に反映したいという考えで行いました。 [トップへ戻る] ▼公認争いに敗れる 私は、次回衆議院議員選挙で甲府市を中心とする山梨県第1小選挙区から新進党
公認での出馬を、党本部に希望していました。しかし、3月16日に新進党本部の
選挙対策本部事務局長の中西啓介代議士から電話をいただきました。内容は「衆院
選の小選挙区山梨県第1区の公認は、総合的な判断の結果として、食糧庁輸入課課
長補佐・後藤ひとし氏(38歳、甲府一高・東北大卒)に決定」というものです。 聞いた瞬間頭が真っ白になりました。私は2年前の衆議院議員選挙に初挑戦し、
3万1741票を獲得しました。以降、新生党山梨県連をつくり、政権交代のある
2大政党制をめざした新進党の結成に参画し、県内においてもいち早く県連を立ち
上げ、幹事長に就任し、改革運動を率先して行ってきた実績と自負がありました。 新進党幹事長なのに、なぜ1区の公認が取れないのかと不満の声をいくつも聞き
ました。後援者と何度も話し合いを重ね、いろいろな方からアドバイスをいただき
ました。そして、政治を志した原点に戻り、どの行動が世のため人のためになるの
かを基準に、自分のなりに考えました。[トップへ戻る]
▼参議院議員選挙に挑戦を決意 3月29日東京で中西選対局長とお会いしました。中西代議士から、参議院議員
選挙の公認の内示をいただきました。
私は熟慮した結果、今年7月の参議院議員選挙・山梨選挙区で新進党の公認を得
て、立候補することを決意いたしました。理由は次の通りです。
・前回3万余人に支援をいただいた責任として、あくまで国政に挑戦すべきだ。
・私自身が当初から設立に参画した新進党を辞めることは無責任で、参院への立
候補は山梨における党勢拡大に貢献できる。
・地元である1区を中心につくってきた後援会を活かすことができる。
・公約違反の現職やダーティな自民党に国政を任せることはできない。
内定をいただき、早速参議院議員選挙の活動計画を立案しました(次のページ参
照)。それにそって、活動を展開します。統一地方選挙中は関係者の支援を行い、
県内中を飛び回り、選挙支援を兼ねて自分の挨拶回りを行います。
2年前の選挙は全県で戦いましたが、その後小選挙区制を前提に、甲府市を中心
に活動を行い、全県下の後援会活動ができていませんでした。そこで、地方選挙が
終わった4月26日後援会を「新誠会」と命名し、参院選に向け再出発しました。
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▼未来を託せる力 5月の連休明けから本格的な活動を開始しました。7月6日公示23日投票です。
わずか2ヵ月半の短期決戦です。 「未来を託せる力」「安全・安心を保障する政治」「活力ある経済と福祉社会の
実現」を掲げて、街頭演説、挨拶回り、小集会と早朝から夜遅くまで、駆け回りま
した。 村山政権発足後、かつてないほど国民の政治不信が充満していました。「無党派
層」が東京都知事選で青島幸男氏を、大阪府知事選で横山ノック氏を当選させたと
マスコミに取り上げられています。 私は、精力的に回る中で、20代の方々と話をする機会がありました。「政治は
汚いもの、あまり関心がない」「選挙にはいかない」と素っ気ない言い方です。典
型的な政治離れの無党派層です。私は次のような話をしました。
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▼無党派層に訴える 「多くの人がスポーツや趣味などの会に入っています。そこで必ず会費を払いま
す。その会費を管理する幹事さんが、勝手に会費の額を変えたり、会員の知らない
間に使ったりしたら、どうでしょうか。その幹事さんに辞めてもらって、別の幹事
さんを選ぶでしょう。
政治も同じことです。税金という会費を私たちは払い、政治家という幹事さんに、
自分たちに代わって日本や山梨という会の運営を任せているのです。私たちは自分
が払った会費で会が運営されていることさえ忘れがちです。その重要な幹事さんを
選ぶのが選挙なのです」その方々は「なるほど、選挙に行こうかな」といってくれ
ました。 そんな体験をいくつもしました。誰でも、話をすればわかってくれます。最近の
政治離れは、きちっと話を有権者にしない政治家の姿勢に問題があるのではないか
と痛感しました。
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▼10万1317票 私は、参議院議員選挙にあたって、3つの政治姿勢と3つの政策を公約に掲げ、各
地で訴えました。 若さをアピールするため、ポスターやビラの顔写真には、ネクタイをはずし、モ
ノトーンで思い切った構図を採用しました。17日間の選挙戦中、1日約200ス
車は走ります。県内を2往復しました。有権者を見かけると街宣車から飛び降り、
走って握手をするスキンシップ作戦を展開しました。走り回るなかで、手応えを感
じました。 労働組合の応援はいただけませんでしたが、公明の推薦をいただき、自民党の支
持母体の業界団体を分断し、支持を取りつけました。無党派層にも食い込めた実感
がありました。中央からも、総決起大会に船田元先生に、選挙になってから、3総
理作戦として海部党首、細川・羽田副党首、そして石田副党首に、また松下政経塾
出身の同志にも応援に駆けつけていただきました。 選挙結果は10万1317票を得ました。しかし、またも落選です。現職の民改
連候補の8万6千票は超えましたが、当選した自民党公認候補が12万9386票で、
2万8千票届きませんでした。郡内地方はじめ、周辺郡市では厳しい戦いでしが、
県都甲府市が4千票差、甲府市に隣接する中巨摩郡が3千票差、親の出身地である
西8代郡が7百票差で勝ちました。
[トップへ戻る] ▼もう1度チャンスを 落選が決まった瞬間、私は家族とともに家にいました。再び敗戦したショックが
ありました。救いは全国で新進党が躍進し、比例票が自民党を超え、第1党になっ
たことです。山梨県でも、新進党票が8万を超えていました。
迎えの車が来て、事務所に向かいます。テレビのライトやカメラのフラッシュの
なか、長男を抱いて事務所に入りました。後援者の拍手が巻き起こります。熱く悲
痛なまなざしを感じます。
私は後援者・選挙事務所・運動員の方々の前に立ち、自分自身の力不足を詫び、
最後まで支援いただいた感謝のことばを述べました。そして家族・親族に、目の前
にいなくても選挙中手を振り、励ましの声をかけてくれた方々、10万人の投票を
していただいた方々に、お礼を述べました。
2度目の落選です。悔し涙が自然とあふれます。妻は勝つまで絶対泣きたくない
と身を固くして、事務所の隅で支持者の方々に頭を下げています。2歳と1歳の何
もわからない子供たちは、驚いた顔をして祖父母に抱かれています。
「もう1度、もう1度私にチャンスをください」
最後にそれだけいうのが精いっぱいでした。
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▼再び街頭に立つ 落選が決まった次の日、7月24日月曜日朝8時に、私は甲府駅頭に立ちました。
さすがに、選挙戦中の疲れと落選のショックからか、足が地についていない感じで
ふらつきました。ありったけの力を振り絞って、マイクを握り、かすれがちな声を
振り絞り話を始めます。
10万人以上の方が私に投票していただいたことへの御礼と、落選はしましたが
政治を変える戦いを引き続き続ける決意を表明しました。
あえて有権者の前に立って話をしなければ、自分自身が崩れ、2度と立ち直れな
くなりそうな気がして、必死に1時間、街頭演説をしました。
事務所に帰ると、既にいくつかの電話があり、反響がありました。
中年の女性の方からは「今回政治不信で、どの候補も同じようなものと思い、夫
婦そろって棄権しました。しかし、今朝赤池さんが駅頭に立って訴えている姿を見
て、こんな政治家もいたのかと棄権したことを悔いました。次回は絶対赤池さんに
入れます。かんばってください」との励ましでした。
やり続けてよかった、ありがたいことだと感謝の気持ちでいっぱいになりました。
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▼挑戦し続ける覚悟 選挙事務所の片付けをすませ、新しい事務所へ引っ越しました。礼状の発送、挨
拶回りと残務処理に追われます。 「よくがんばった」「大健闘」「次は大丈夫」と歩くたびに、激励やねぎらいの
ことばをいただきました。 私は松下政経塾の五誓にある「成功の要諦は成功するまで続けるところにある」
ということばを胸に刻み、次回に向けて、挑戦し続ける覚悟です。 [トップへ戻る] ▼街頭で訴える
参議院議員選挙の翌月1995(平成7)年8月、身延町議会議員選挙があり、
暑いなか選挙支援に歩き回りました。
そして、今年も8月15日の終戦記念日がやってきました。
今年は戦後50年の節目の年でした。
8月下旬、誘われてライオンズクラブのマレーシアのボルネオ島への植林ツアーに
1週間同行参加しました。 9月になって、韮崎市議会議員選挙の支援に回り、各種団体の活動に参加します。 参議院議員選挙の御礼を兼ねて、1軒1軒歩く一方、挨拶状の発送が2ヵ月かかって
ようやく終わりました。発送数は約2万通です。お金がかかります
(お金と政治については、「個票」と「弔電」を参照してください)。 10月に入って、玉穂町、敷島町、三珠町の議員選挙が行われ、出陣式のメッセージと
為書きを立候補者に持参しました。党活動としては、公明との連絡協議会「改革やまなし」開催、
南関東ブロック協議会開催、連合山梨定期大会へ出席、常任幹事会開催、三区の会合を行います。
後援会活動や山梨特有の「無尽」に顔を出します(無尽については、「無尽」文化県・山梨を参照) 10月5日の沖縄の小学生女児暴行事件を契機とした、日米安保条約の地域協定の見直し問題について 新進党山梨県連の見解をとりまとめました。そして、私は11月9日甲府駅で街頭演説を行いました。 初公判が行われた米兵による沖縄の小学生女児暴行事件は、日米関係の基盤を揺るがす大問題に発展 しています。これを契機に、雨を降って地固まるのたとえがあるように、日米の信頼関係をより強固な ものにし、アジアの平和のために、日米安保条約を再定義すべきだと思います。 今回の事件を契機とした一連の村山内閣の対応は、お粗末の一語につきます。沖縄にとっても、 日米関係にとっても、最悪のパターンではないかと思います。 村山内閣は事件が起きた後、沖縄の歴史と県民感情を無視し、表面的な地位協定の運用改善だけで 乗り切ろうとします。しかし、沖縄の大田知事が基地の土地使用の代理署名を拒否し、 8万5千人の集会が行われるなど沖縄県民の態度が固いことがわかると、一転して、 できる可能性がない基地の縮小で事態を収拾しようとします。 日米安保条約の重要性を沖縄県民や国民に訴えることもなく、その場しのぎの対応に、アメリカ政府は 失望します。 私は、運用改善だけでなく、沖縄県民の意思にそって、日本政府は地位協定の見直しをアメリカに 堂々と提案し交渉すべきだと思います。そして、その一方で、沖縄をはじめ日本国民に、率直にアジア 地域の軍拡の実態を訴え、日米安保条約の重要性を説明し、日米の協力体制をより確かなもににする 必要があります。基地や演習場の必要性を認識した上で、効率化適正化を模索し、さらに、PKFの解除 や、憲法論議を含めた集団的自衛権の議論を起こしていく必要があります。 言うべきことは言い、いざ共同して行動するときはきちっと動く、それが日米関係の基本だと思います。 [トップへ戻る] ▼新進党党首公開選挙 1995年の暮れも押し迫った12月に新進党の党首公開選挙が行われた。1千円を郵便振替で振り込 めば、誰でも投票できるというユニークな選挙であった。党首を国民が選び、その党首が総選挙を経て、 総理大臣になれば、実質的な首相公選制の実現である。村山自社さ連立内閣の誕生など、国民の信を問わ ず、内閣が入れ代わることに対する強力なカウンターパンチであった。 実際、県内を街頭宣伝カーで、投票呼びかけ遊説を行ったが、投票用紙はどこのあるのかなど、 確かな手応えを感じた。 羽田孜副党首が立候補を表明し、小沢一郎幹事長も立候補、海部党首が急遽辞職して小沢支持に回る など、あわただしく党内が動いた。私は、羽田孜氏を支持し、応援した。自分の参議院選挙のときに 直接羽田孜氏に応援してもらったこと、トップダウンの小沢氏ではなく、地域の私たちの声を重視する と表明した羽田氏支持で運動した。結果は予想外の差がつき、小沢氏の圧勝であった。 そこから、新進党の混迷の度合いが深まることになろうとは、皮肉であった。 [トップへ戻る]
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[活動報告1996年新進党離党]
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